鶴ヶ城公園内にあるお茶室で、千利休の恩師である会津藩主蒲生氏郷が、利休の子である少庵を会津に招き、茶道の振興のために建てました。
明治7年に鶴ヶ城が解体される際、石州流怡渓派の森川善兵衛が政府に願い出て茶室を自宅に移築し、保存していましたが、平成2年に元の場所である鶴ヶ城内に移築・復元されました。
茶室麟閣では、庭園の四季を楽しみながらお抹茶を味わうことができます。
鶴ヶ城公園(若松城・黒川城)は、1384年に東黒川館が築城されたことから始まりました。
伊達正宗、豊臣秀吉、徳川家康との関わりを経て、1868年の戊辰戦争の会津戦争では、1ヵ月もの間、新政府の攻勢に耐え抜いたことから、難攻不落の名城として知られています。
茶室麟閣は、鶴ヶ城公園内に位置する茶室です。千利休の自害後、会津藩主蒲生氏郷は利休の子である少庵を保護し、千家の再興に尽力しました。その際に建てられたのが茶室麟閣です。戊辰戦争後、茶室は城下へ移築されましたが、平成2年に元の場所に再び移築されました。
豊臣秀吉の奥州仕置きにより、天正18年(1590年)に蒲生氏郷が会津に入り、その後の支配を確立しました(初は42万石、後に92万石)。
蒲生氏郷は織田信長の婿であり、勇猛な武将として知られるだけでなく、当時の代表的な文化人でもありました。特に茶道に熱心であり、後に利休七哲の筆頭とされるほどでした。
天正19年(1591年)2月28日、千利休が豊臣豊臣秀吉の怒りを買い、命を奪われると同時に千家は茶道の世界から追放されました。この時、蒲生氏郷は利休の茶道が途絶えることを惜しみ、利休の子である少庵を会津にかくまい、徳川家康と共に千家の復興を豊臣秀吉に働きかけました。その結果、「少庵召出状」とされる文禄3年(1594年)に復興が認められました。
少庵は京都に戻り、千家を再興しました。その後、宗旦(そうたん)という一子が茶道を引き継ぎ、千家茶道は続いていきました。その後、宗左、宗室、宗守という三人の孫によって表千家、裏千家、武者小路千家の三つの流派が興され、現代の茶道の隆盛の基盤が築かれました。
蒲生氏郷のために建てられたと伝えられる「麟閣」は、その間ずっと鶴ヶ城(若松城)内で大切に使われてきました。しかし、戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治初年に鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室が失われるのを惜しみ、明治5年(1872年)5月に自宅に移築しました。それ以来、120年以上にわたって森川家はその保護に努めてきました。
平成2年(1990年)9月12日、会津若松市は市制90周年を記念して、蒲生氏郷と少庵にゆかりのある茶室を後世に伝えるために、鶴ヶ城内の元の場所に茶室を移築しました。
茶室麟閣では、抹茶と薯蕷饅頭を味わうことができます。春は桜、秋は紅葉と四季折々の自然を楽しみながら、ゆっくりと一服してみませんか?
8:30~17:00
無休
大人 210円
小中学生 無料
鶴ヶ城天守閣との共通券
大人 520円
小中学生 150円
お抹茶一席 600円(お菓子付き)
JR会津若松駅よりまちなか周遊バス「ハイカラさん」で「鶴ヶ城北口」下車、徒歩約5分
磐越自動車道 会津若松ICより車で約20分