土津神社は、福島県耶麻郡猪苗代町に位置する神社で、陸奥会津藩初代藩主・保科正之を祀っています。正之が寛文12年(1672年)12月に亡くなると、彼の遺言に基づいて神社が造営されました。創建当初の神社は戊辰戦争の際に焼失しましたが、明治13年(1880年)に現在の社殿が再建されました。境内には亀石に載った高さ7.3m、重量30tの石碑があり、日本最大の石碑とされています。
土津神社は延宝3年(1675年)、磐梯山山麓の見祢山(みねやま)に保科正之の墓所として造営されました。神社の名称「土津」(はにつ)は、寛文11年(1671年)に正之が吉川惟足より吉川神道の奥義を授けられた際に送られた霊神号に由来しています。翌寛文12年12月18日(1673年2月4日)に正之が死去すると、遺言通り見祢山の麓磐椅神社(いわはしじんじゃ)の西方に葬られました。正之は生前、死後は磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社となり、永遠に神に奉仕したいと望んでいました。そのため、土津神社は磐椅神社の末社となっています。
現在、境内には明治13年(1880年)に再建された社殿と7つの末社、山崎闇斎の撰文で正之の治績を刻んだ高さ7.3mの土津霊神之碑があり、さらに奥の院として正之の墓所があります。
寛文12年8月11日、保科正之は重臣と共に見祢山へ登り、磐椅神社へ参拝しました。その時にこの地を気に入り、自らの墓所と定めました。翌年に正之が死去すると、遺言通りにその地に葬られ、神式の葬儀によって埋葬されました。当時、江戸幕府は葬式を仏式によるものと定めていましたが、吉川惟足が老中稲葉正則と交渉し、神式で執り行う旨の許可を得ました。
その後、延宝3年に墓所の南側約1キロメートルの地に土津神社が造営されました。神殿造は古来の正式に則っており、日光東照宮と比較されるほどの絢爛豪華な建物でした。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争時、会津藩が母成峠の戦いで敗れた後、猪苗代城代高橋権大夫の命で土津神社には火が放たれ、全焼しました。その後、会津藩が斗南藩(現・青森県下北半島)に移封されると、土津神社の御神体も斗南藩に遷されました。明治4年(1871年)の廃藩置県によって斗南藩が廃されると、御神体は猪苗代へ戻り、磐椅神社に祀られました。明治7年(1874年)から土津神社の再建が始まり、同13年に完成し、御神体が遷されて現在に至っています。
正之の葬儀を担当した会津藩家老友松勘十郎氏興は、神社の維持管理のために神社の神田を作り、そこからの収益で維持することを考えました。そして、荒野を切り開いて田を開発するために造られたのが土田堰(はにたぜき)です。土田堰は長瀬川から引水され、磐梯山東麓から土津神社の境内前を通り、大谷川下流に至るまでの約17キロメートルの堰です。この堰は磐梯山南麓・猪苗代湖北西部一帯を灌漑しています。
土田堰によって開墾された村は土田新田村と呼ばれ、正之の墓と土津神社を守り、祭事を行う人々のために造られた集落が土町(はにまち)です。土町は土津神社の門前に位置し、住民は年貢や賦役を免除されていました。現在、土田堰は江戸時代と同様に磐梯山南麓一帯の水田を潤しています。また、土町には民宿もあり観光客が訪れています。
重要文化財
史跡(国指定)
福島県指定文化財
土津神社では年間を通じていくつかの祭事が行われています。
正之が「土津」の霊号を授かった際、「余の没後は神道の礼をもって磐椅神社の神地に葬ってもらいたい」という遺書を老臣たちに与え、その遺志は御子・正経公に伝えられました。正之は寛文12年(1672年)8月21日に自ら猪苗代に参り、見禰山に登って墓地を定め、「我が身はここに納めてくれ」と家臣に命じました。
その後、正之の遺言に従い、二代藩主正経は家老の友松勘十郎氏興に土津神社の建立を命じました。延宝元年(1673年)、神祇官領長・吉田兼連がご神体を奉じて仮殿に安置し、延宝3年(1675年)8月19日に神社が落成しました。
正之はこの地が若松城(鶴ヶ城)の丑寅の方角(鬼門)にあたることから、この地に眠ることで会津藩を守ろうと考えました。重厚な感時門や廻廊、透塀などを持つ荘厳華麗な神殿造りの社殿は「東北の日光」と言われましたが、戊辰戦争で消失し、明治13年(1880年)に 再建されました。
「土津」という霊号は「万物の理(神道の奥義)を究められた会津藩主」という意味です。正之は晩年に至るまで神道を尊信し、吉川惟足を師としてもっぱら吉田神道(卜部神道)を学びました。そして、寛文11年(1671年)に吉川惟足から霊号「土津」を授かりました。五行思想では「木・火・土・金・水」から万物がなると考えられ、その中でも「土(つち、はに)」は宇宙の構成要素の根本であり、万物の始めと終わりを象徴します。この理を体得したことから、「土津」と名付けられました。