心清水八幡神社は、福島県河沼郡会津坂下町塔寺に位置する神社で、塔寺八幡宮とも呼ばれています。高寺山の南東にあり、道路を挟んだ東隣には恵隆寺(立木観音堂)があります。中世会津の世情や文化が記された国の重要文化財『塔寺八幡宮長帳』を今に伝えるこの神社は、地域の歴史と文化の重要な一部となっています。
この神社の由来は、天喜3年(1055年)の6月、源 頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)公が奥州(東北)を征伐する際、京都の石清水八幡から分霊を受けてこの地に祀り、戦勝を祈ったのがはじまりだと伝えられています。その2年後、奥州征伐が終了したのちに義家公は社殿を建てました。
当時の社殿は金塗りという豪華なものでしたが、天保11年(1840年)に火災で焼け落ちてしまいました。現在の社殿は火災時の会津藩主であった松平容保(まつだいらかたもり)公が藩費で再建したものです。
また、この神社は戌・亥歳生まれの一代守り神で、敷地内には境内社も数多く建てられています。境内は非常に静かで静謐な雰囲気が漂い、木々のささやきの中、心を落ち着けるのにぴったりの場所です。
寛文7年(1667年)には、保科正之公が神社制度を改め、社僧を廃し、仏像や仏具を祭らず用いず古来の唯一神道に戻し、会津五大社の一つとして会津総鎮守を祭りました。
心清水八幡神社の祭神は、誉田別命、息長帯比売命、比咩大神の三柱です。これらの神々が祀られることで、神社は地域の信仰の中心としての役割を果たしています。
塔寺八幡宮長帳は、神主らが大般若経などの御経の転読やその配役などの神社の行事を記した日記で、全長約120mにも及ぶ長大なものです。現存するものでも、貞和6年(1350年)より寛永12年(1635年)までの286年間分にも及んでいます。長帳の裏書には、会津を中心とした政治や社会の動きや災害などの記事が記載されており、会津中世史を解明するにあたって第一級の史料といえるでしょう。
その重要さは江戸時代より認識されており、『会津風土記』や『新編会津風土記』はもとより、塙保己一編集の『群書類従』にも取り上げられているほか、多くの写本が流布されました。
また、これとは別に、通称『異本塔寺長帳』と呼ばれる日誌が内閣文庫に現存しており、こちらは天喜5年(1057年)から享保20年(1735年)までの記録が記されています。長帳はその貴重性から昭和4年(1929年)に国の重要文化財に指定されました。