中田観音(弘安寺)は、会津三十三観音の三十番札所であり、弘安2年(1279年)に創建されたことから弘安寺と名付けられました。地域では「中田の観音さま」として親しまれています。また、「会津ころり三観音」の一つにも数えられています。本尊である十一面観音は、縁結びや安産などのご利益があるとされています。
中田観音は会津三十三観音第30番札所であり、曹洞宗普門山弘安寺の一部です。地域内外から信仰を集めており、観音堂内の「だきつき柱」に抱きついて念願すると、その思いは成就するといわれています。本尊は、長者江川常俊の一人娘、常姫の死を弔うために作られたと伝えられています。
会津藩主代々の祈願所でもありました。観音堂には「だきつき柱」があり、信仰心のある方が抱きつくと何事も念願がかなえられるとされています。
この寺は、医聖・野口英世の母、シカが息子の火傷治療と立身出世を祈願して毎月参篭し続けたことで知られています。英世が大正4年(1915年)に帰国した際、母と恩師を連れて9月15日にお礼参りした写真が境内に残されています。
もともとは十一面観音像を祀った厨子であり、本尊が文永11年(1274年)頃に鋳造されたことから、同時期のものと考えられます。17世紀に堂外に弁天堂として置かれ、かなり作り変えられましたが、昭和47~48年に保存修理され、原型に戻されました。鎌倉期禅宗様の中央の手法による貴重なものであり、国の重要文化財に指定されています。
子宝に恵まれない長者夫妻
鎌倉時代、奥州会津の寒川村(現在の会津美里町佐布川)に江川常俊という長者がいました。彼は白壁の倉を7棟も構えるほどの富豪で、この地域では「江川長者」と呼ばれていました。しかし、長者夫妻には子宝に恵まれず、そのことが最大の悩みでした。夫妻は法用寺(会津美里町雀林)の観音様に日参し、子宝を願っていました。
待望の娘・常子の誕生
その後、夫妻の願いが叶い、妻が懐妊しました。やがて待望の女の子が誕生し、彼女は「常子」と名付けられました。常子はすくすくと成長し、やがて17歳の春を迎えました。
一目ぼれと恋煩い
常子は乳母とともに法用寺の祭礼にお礼参りに出かけました。祭礼が終わり、満開の虎の尾桜を眺めていたとき、根岸中田村(現在の会津美里町根岸)の地頭、富塚伊賀守盛勝という若殿に一目ぼれしてしまいました。常子はこの思いを誰にも打ち明けることができず、次第に食事も喉を通らなくなり、ついには床に伏してしまいました。
常子の死と両親の悲しみ
医者や祈祷師の力を借りても常子は回復せず、文永10年(1273年)6月17日にこの世を去りました。両親は深い悲しみに暮れ、常子の菩提を弔うために、彼女に似せた観音像を鋳造しようと決意しました。
観音像の鋳造
両親は伊佐須美神社のご神体が降臨したと伝えられる明神ヶ岳の麓、長尾地区(現在の奥の院)を聖地として清め、1週間以上の苦労の末に観音像を鋳造しました。そして、この観音像を寒川村にある寺に運ぼうとしました。
牛車の停止と観音堂の建設
しかし、根岸中田の里まで来ると、観音像を載せた牛車が動かなくなってしまいました。これは亡き娘の希望だと悟った両親は、富塚盛勝の屋敷近くに観音堂を建て、観音像を安置しました。この出来事は文永11年(1274年)8月8日に起こりました。
諸国遍路の旅
両親はこの出来事を通じて世の無常を悟り、弘安元年(1278年)に諸国遍路の旅に出ました。その後の行方はわかっていません。
盛勝の心の変化
後に、この一部始終を知った富塚盛勝は、常子の厚い思いに心を打たれ、下野(現在の栃木県)から厳知という僧を招いて中田庵を建てました。そして、弘安2年(1279年)に伽藍を造営して寺を「弘安寺」と改め、自らも臨済宗に帰依し、その後20年間にわたり常子の霊を慰め続けました。盛勝は正安元年(1299年)3月10日に46歳で没し、法号は「弘安寺殿玄翁宗頓居士」とされました。
重要文化財(国指定)
中田観音(弘安寺)は、多くの文化財を有しています。その中でも特に重要なのは以下のものです:
これらの文化財は、歴史的価値が高く、訪れる人々に深い感銘を与え続けています。中田観音は、地域の信仰の中心として、多くの人々に愛され、訪れる人々に安らぎと希望をもたらしています。
文永11年(1274年)に鋳造された本尊の十一面観音を中心に、脇侍の地蔵菩薩と不動明王が祀られている珍しい様式であり、三体とも国の重要文化財に指定されています。
中田観音は多くの文化財を有しています。その中でも特に重要なのは以下のものです。
重要文化財(国指定)
これらの文化財は、歴史的価値が高く、訪れる人々に深い感銘を与えています。中田観音は、地域の信仰の中心として、多くの人々に愛され続けています。