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史跡 慧日寺跡

(Historical Site Ruins of Enichiji Temple)

平安時代の初めに開かれた東北最古の寺院

慧日寺は、平安時代の初めに南都法相宗の高僧「徳一菩薩」によって開かれた寺院です。東北地方では、開基が明らかな寺院として最古のものとされています。その広大な寺跡は昭和45年に国の史跡に指定され、復元整備が進められています。平成20年には金堂と中門が復元され、さらに金堂内の展示物として薬師如来坐像が復元制作され、平成30年夏から一般公開されています。

徳一廟とその他の見どころ

敷地内には、慧日寺を開いた徳一菩薩の墓と伝えられる平安時代の石塔「徳一廟」があります。かつては三重の石塔と考えられていましたが、発掘調査により五重の石塔であることが判明しました。史跡慧日寺跡には、他にも仁王門や薬師堂など多くの見どころがあります。

春の見どころ:木ざし桜

春には、樹齢800年を数えるエドヒガンザクラ「木ざし桜」が花を咲かせます。この桜は、平安末期ごろに慧日寺の宗徒頭・乗丹坊が挿した桜の杖が成長したものであるという伝承が残っています。種まき桜とも呼ばれ、この桜の花が咲き始めると田畑作業を始める目安とされていました。

慧日寺の歴史的背景

慧日寺は、約1200年前に南都で法相教学を学んだ僧・徳一が都を離れ、会津で最初に開いた寺です。寺は磐梯山の西方に連なる山々の南麓に位置しています。明治初期には廃寺となりましたが、その広大な寺跡の一部は、昭和45年(1970年)に国の史跡に指定されました。現在、戒壇・本寺・観音寺の3地区に指定地域が分かれており、町による史跡整備事業が進められています。

復元と保存の取り組み

昭和45年に国の史跡に指定されて以来、慧日寺跡の復元と保存の取り組みが進められています。平成20年には金堂と中門が復元され、さらに金堂内の展示物として薬師如来坐像が復元されました。これにより、かつての慧日寺の壮大な伽藍の一端を垣間見ることができます。

徳一廟と周辺の遺構

敷地内にある徳一廟は、慧日寺を開いた徳一菩薩の墓とされている五重の石塔です。この他にも、仁王門や薬師堂など多くの歴史的な建造物や遺構があり、訪れる人々にとって見どころが豊富です。

慧日寺の歴史

慧日寺は平安時代初め、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一によって開かれました。徳一は南都(奈良)の学僧で、布教活動のため会津へ下り、勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていました。徳一はまた、天台宗の最澄と「三一権実諍論」と呼ばれる大論争を繰り広げたり、真言宗の空海に「真言宗未決文」を送ったりもしていました。

徳一は842年(承和9年)に死去し、今与(金耀)が跡を継ぎました。この頃の慧日寺は、寺僧300、僧兵数千、子院3,800を数えるほどの隆盛を誇っていました。「国王神社縁起」及び「元享釈書」によると、平将門の三女が恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称して留まり、将門の死後33年目に郷里(茨城県坂東市)に帰ったと伝わっています。

平安時代後期には、慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深まりました。1172年(承安2年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進され、その影響で源平合戦が始まると、慧日寺の衆徒頭である乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて助職への援軍として駆けつけました。しかし、この横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退しました。

中世から近代の復興

その後、中世に入ると領主の庇護などもあり、伽藍の復興が進みました。『絹本著色恵日寺絵図』によると、室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことが分かります。しかし、1589年(天正17年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまいました。その金堂も江戸時代初期の1626年(寛永3年)に焼失しました。

その後、再建されたもののかつての大伽藍には程遠く、1869年(明治2年)の廃仏毀釈によって廃寺となりました。しかし、多くの人々の復興運動の成果が実を結び、1904年(明治37年)に寺号使用が許可され、「恵日寺」という寺号で復興されました。現在は真言宗に属しています。

慧日寺の遺構

慧日寺は太平洋戦争後に発掘調査が開始され、その遺構は「本寺地区」「戒壇地区」「観音寺地区」の三カ所に残されています。

本寺地区

「本寺地区」は慧日寺の中心伽藍があった場所で、発掘調査によって創建当初は中門、金堂、講堂、食堂と推定される主要な建物が南北一列に建立されていたことが判明しています。現在は中心伽藍遺構の東側に薬師堂と仁王門、さらにその東に龍宝寺不動堂と乗丹坊供養塔、中心伽藍の北には徳一廟が残されています。

戒壇地区

「戒壇地区」は本寺地区の西方にあり、丘陵末端部を利用して作り出された小山状の遺構が残っています。発掘調査によって平安時代の石塔や火葬骨片が出土し、墓域ではないかと推定されています。

観音寺地区

「観音寺地区」は本寺地区の北東1.7km、標高570 - 590mの山中に位置しており、5棟の礎石建物跡が露呈しています。発掘調査はまだ行われていませんが、規模や配置から門、塔、本堂、倉の跡と推定されています。

慧日寺の山岳信仰

慧日寺は北東に磐梯山、北に厩岳山、さらに磐梯山の北に吾妻山という山岳信仰の盛んな山を抱えており、その立地的な面から山岳信仰に大きな役割を果たしてきました。慧日寺の開基は806年(大同元年)に磐梯山が噴火した翌年であり、噴火と慧日寺開基との間に山岳信仰上の関連があるのではないかとする見方もあります。

文化財と慧日寺資料館

重要文化財

白銅三鈷杵(はくどうさんこしょ、工芸品)
奈良時代の作で、1959年(昭和34年)に国の重要文化財(工芸品)に指定されています。1995年(平成7年)、会津若松市の若松城天守閣郷土博物館へ貸し出していた間に盗難に遭いましたが、2006年(平成18年)8月に東京都内で発見されました。

史跡

慧日寺跡
平安時代の初めに南都法相宗の高僧・徳一によって開かれた寺院で、東北地方では開基の明らかな寺院としては最古のものとして知られています。広大な寺跡は1970年(昭和45年)に国の史跡に指定され、将来に向けて復元整備が図られています。

県指定文化財

磐梯山慧日寺資料館

本寺地区南西部には、慧日寺関連文化財の保存・公開や発掘調査の成果を展示することを目的として1987年(昭和62年)に開館した磐梯山慧日寺資料館があります。開館日は4月15日から11月30日で、冬季は休館しています。資料館の敷地には厩岳山山頂にあった馬頭観音堂が復元されていたり、名水百選に選定されている磐梯西山麓湧水群の一つである龍ヶ沢湧水が引水されたりしています。

この ように、恵日寺は歴史的・文化的に非常に価値のある寺院であり、今後もその遺構の保存と公開が進められていく予定です。訪れる人々にとって貴重な文化財を学び、歴史を感じることのできる場所となっています。

慧日寺の文化的価値

慧日寺は、その歴史的背景と広大な寺跡から、東北地方の仏教文化を語る上で欠かせない存在です。現在も続く復元と保存の取り組みにより、今後もその文化的価値が広く認識され、保存されていくことでしょう。慧日寺跡は、訪れる人々にとって貴重な文化財を学び、歴史を感じることのできる場所です。

Information

名称
史跡 慧日寺跡
(Historical Site Ruins of Enichiji Temple)

会津・喜多方

福島県