草野心平記念文学館は、福島県いわき市にある文化勲章受章者・日本藝術院会員で、蛙の詩人としても有名な草野心平に関する資料を集めた市立文学館・生涯学習施設です。
いわき市の名誉市民でもある詩人、草野心平(1903~1988年)の生涯と作品の魅力を、自筆原稿、詩集、自作朗読音源、そして彼が開いた居酒屋「火の車」の復元展示などで紹介しています。さらに、文学をはじめとした企画展、講演会、演奏会など、多彩な催しを開催しています。館内ロビーからは、心平のふるさとである小川町と阿武隈山系の山脈を一望でき、詩人を育んだ雄大な自然を体感できます。
施設は大きく分けて常設展示室、企画展示室、文学プラザ、小講堂、アートパフォーミングスペース、アトリウムロビーなどから構成されています。常設展示室では主に草野心平自身についての展示が中心で、企画展示室では心平と交流のあった作家や他のいわきの詩人についての展示などが中心となっています。他に季節ごとの企画展なども行われています。
アートパフォーミングスペースとアトリウムロビーでは絵画展や写真展、詩の朗読会、コンサートなど様々な芸術活動が実施されています。文学プラザでは文学図書の閲覧や情報検索ができ、小講堂では講演会や講座、シンポジウム、文学シアターなどが開催されています。また、自然豊かな屋上庭園や遊歩道でリラクゼーションを楽しむこともできます。
草野心平の業績を顕彰し、次世代へ心平が残したものを伝えることを目的としています。幅広い来館者に対して心平の魅力を伝え、その精神を深め、広げていくために心平に関する情報を提供します。
常設展示室内では、草野心平の生涯と作品を紹介しています。室内は、時間の経過とともに音や光が変化し、カエルや虫たちの声、水のせせらぎと光の色の組み合わせによって、心平の「すべてのものと共に生きる」作品世界を体感することができます。
草野心平の人生とその時代、詩の変化をまるでタイムトンネルのようなドーム状の展示内部で紹介しています。ジグザグロードとも言える心平の生涯と交友、そして作品を奥に進むにつれ、85年間に渡る心平の歩みをたどることができます。
草野心平の転居にみる人との交流も紹介されています。16歳で故郷を出てから40数年間、心平は日本国内だけでも合計32回の引越しをしています。特に貧しかった20代から30代にかけては20数回の引越しを繰り返しましたが、その多くは家賃の支払いに行き詰まってのものでした。ここでは、転居年譜とその転居の中で心平に寄せられた書簡を紹介しています。
心平は生涯に様々な商売を手がけました。「火の車」は、1952年(昭和27年)、東京都文京区田町に開いた居酒屋で、心平がカウンターで包丁を握り、奥の四畳半で寝起きをして健筆をふるったという記念碑的場所です。
コレクションの趣味などない心平が、ただひとつこだわって集め続けたものが名もない石ころたちでした。地球の奥深く、幾万年と眠り続けた石の孤高と時間。小さな石を手にとって見つめるとき、心平はそこにミクロコスモスを感じるといいます。
心平が「命名の天才」だったことは誰もが認めます。命名とは、心平にとって最も短い詩の形態だったのかもしれません。ここでは作品に登場するカエルをはじめとした動物に命名した名前を紹介しています。心平が実生活で共に暮らした動物たちの名前もあります。
草野心平の作品のモチーフとしていた世界を紹介しています。心平にとっての「生」、また彼の宇宙観にある「天」というモチーフを、本人の言葉とそれらを描いた作品によって紹介しています。
また、心平の詩的世界の中でも特に独創性にあふれた文字使い、擬音で構成された詩、そしてイメージの広がりと豊かな言語感覚を紹介しています。さらに、心平自身の肉声による自作詩朗読コーナーも設けられています。
企画展示室では、いわきの詩人や心平と交流のあった作家を紹介するほか、各種テーマを設けて展示します。
文学プラザでは、文学に関する図書の閲覧、タッチパネルによる文学情報の検索や、詩を作ることができるコーナーがあります。
アートパフォーミングスペースは、さまざまな芸術領域を癒合した創作、創造、表現活動の空間です。ここでは、絵画展、写真展、詩の朗読会等を行ないます。
草野心平(くさのしんぺい)は、1903年(明治36年)5月12日、福島県石城郡上小川村(現在のいわき市小川町)に父馨、母トメヨの二男(長女綾子、長男民平、心平、三男天平、二女京子)として生まれ、祖父母のもとで育ちました。幼い頃から腕白でひどく癇が強い子どもだったようです。本を食いちぎり、鉛筆をかじり、誰かれとなく噛みついていた幼少期を、心平は、故郷の阿武隈山系に見られる大花崗岩のように「ガギガギザラザラ」だったと描写しています。
1919年(大正8年)、県立磐城中学校を中退、上京した心平は、翌年、慶応義塾普通部に編入。そして1921年、中国、広東省広州の嶺南大学(現・中山大学)に留学しました。この時、16歳で夭折した長兄民平の遺品である3冊のノートを持参し、そこに書かれていた詩や短歌に触発され、心平は詩を書き始めます。あまりに盛んな詩作に、同級生から「機関銃(マシンガン)」と呼ばれました。留学時代、心平は青春を謳歌するとともに詩人としての第一歩を踏み出したのです。
1923年夏、帰省した心平は亡兄との共著詩集『廃園の喇叭』を、母校の小川小学校から謄写版を借りて印刷します。1925年には、同人誌「銅鑼」を創刊し、宮沢賢治や黄瀛らが同人でした。同年、卒業を待たずに帰国してからの心平は貧困の中、新聞記者、屋台の焼鳥屋、出版社の校正係等で生活の糧を得ながら30回以上の引っ越しを繰り返しました。1928年(昭和3年)、結婚後間もなく移り住んだ前橋では、明日の食べ物のあてもないという貧窮ぶりでしたが、同年、初の活版印刷による詩集『第百階級』が世に出ました。
心平は「蛙」をはじめ「富士山」「天」「石」等を主題にして詩を書きましたが、その根底には「すべてのものと共に生きる」という独特の共生感がありました。さらに書や画等、多彩な創作活動を展開しています。自身の歩みを「ジグザグロード」と表現したように、創作活動の一方で様々な職業に就きました。戦後、故郷の小川郷駅前に開いた貸本屋「天山」、居酒屋「火の車」とその後のバー「学校」等、その逸話には事欠きません。1935年、創刊に参加した同人詩誌「歴程」は587号(2013年12月現在)を超えて現在も続いており、高村光太郎や中原中也らをはじめ、そこに心平の広範な交友関係を垣間見ることができます。それらが渾然一体となって心平の魅力を生み出していると言えるでしょう。
1988年11月12日、1,400篇余の詩を残し、心平は生涯を終えました。