霊山神社は、福島県伊達市霊山町大石に位置する神社で、旧社格は別格官幣社です。現在は神社本庁の別表神社として認識されています。また、建武中興十五社の一社としても知られています。
この神社は、皇室からの崇敬が厚い神社で、北畠親房、顕家、顕信、守親を祀っています。例年4月29日と10月上旬に春季・秋季の例大祭が行われ、特に春季例大祭では濫觴の舞や獅子舞が奉納されることで知られています。また、境内に植えられた紅葉は「五彩のもみじ」と称され、赤、橙、黄、黄緑、緑の5色に彩られる美しい景観が魅力です。
霊山神社は、霊山の麓に位置し、北畠一族を祀る神社として1881年に創建されました。創建に際しては、北畠親房、顕家、顕信、守親(顕信の子)が主祭神として祀られ、北畠氏の支城があった地に社殿が造営されました。南朝側の皇族や武将を祀る15の神社、建武中興十五社の一つとされています。
春の例大祭で奉納される剣舞「濫觴武楽」は、北畠顕家が多賀城から霊山城に入城した際、地元民が歓迎と武運長久の願いを込めて舞ったものとされ、670年以上の伝統を持っています。秋の例大祭では、獅子舞が奉納され、境内の紅葉が見頃を迎えます。
春季例大祭は4月29日に開催され、神事の後には神社参道で奉納される濫觴舞楽や北又の獅子舞、霊山太鼓などの演技が行われます。
秋季例大祭は10月上旬に行われ、獅子舞が奉納されるほか、境内のもみじが見頃を迎えます。
祭神には、南北朝時代の後醍醐天皇に仕えた南朝側の公卿、北畠親房、顕家、顕信、守親が含まれています。霊山は親房以降の北畠氏の本拠地であり、顕家が陸奥国府を置いた地でもあります。
1817年(文化14年)には松平定信が霊山碑を建立し、1868年(明治元年)には米沢藩の儒者・中山雪堂と医師・西尾元詢が顕家らの英霊を祀る神社の創立運動を起こしました。1876年(明治9年)には明治天皇の東北巡幸を契機に霊山が選定され、1879年(明治12年)に創立が請願されました。1880年(明治13年)には霊山の西方山麓に社殿が造営され、1881年(明治14年)には鎮座祭が行われました。1885年(明治18年)には別格官幣社に列せられました。
明治期には元会津藩筆頭家老の西郷頼母が神社の神職を務め、親族の西郷四郎が養子として育てられました。四郎は後に上京し、講道館の嘉納治五郎に師事し柔道修業に励みました。小説や映画で有名な姿三四郎は、彼がモデルとされることもあります。
参道には表参道と西参道の2ヶ所があります。表参道は大石小坂地区から始まる256段の石段で、神社に向かって進む風情があります。西参道は大石院主地区から始まる舗装道路で、中間地点までは大型バスの通行も可能です。
駐車場は表参道の入口と西参道に3ヶ所あります。西参道入口駐車場と中間駐車場は大型バスの駐車も可能で、祭祀時や積雪時には通行止めとなる場合があります。
鳥居は表参道と西参道の入口に大型のものが立っています。石切場から運搬するために道路拡幅や橋の補強が行われました。
幟旗掲揚柱は、祭典時に幟旗を掲げるための柱で、表参道、西参道の入口、そして西参道中間駐車場に設置されています。
狛犬は西参道の中間駐車場に設置されています。
手水舎、斎館、参拝者休憩所、神門、百度石、授与所・社務所、神楽殿なども整備されています。神楽殿では例祭時に舞や武道、民謡民舞が奉納されるほか、9月中旬には「お月見・雅楽と舞の夕べ」が開催されます。
国旗掲揚柱は祝祭日や祭祀時に国旗を掲揚するための高さ15メートルの柱です。
灯籠は朱塗りのもの2基と花崗岩のもの2基が設置されています。
貫通石は、東日本大震災以後に整備された相馬福島道路でトンネル掘削時に採取された貫通石が奉納されています。
掲示板は維持・整備の協賛者や協賛企業の掲示、祭典や行事のお知らせが張り出されます。
御社殿は御本殿、幣殿、拝殿、神饌所、瑞垣から成り、御本殿には御神体を奉安してあり、例祭時には供物や幣帛が奉られます。拝殿には神職・楽人・舞姫が着座する内拝殿と、参拝者が着座する外拝殿があります。
祖霊舎では歴代神職や氏子、崇敬者の御先祖の御霊祭を行っています。